風の又三郎、スタンドバイミーにみる少年と死

かれこれ10年くらい前でしょうか。

「世界一受けたい授業」というTV番組で武田鉄矢さんが宮沢賢治「風の又三郎」の自分なりの解釈という授業をされていました。

YouTubeで探したのですが、後半部分しかありませんでした。

本当は最初から見たい所ですが仕方ありません。
後半だけでもご覧になってください。

とりあえず動画を見ていただくのが早いんですが、かいつまんで文字起こしをするとこんな感じになります。

風の又三郎というのは「死」の事である

少年時代、特に大概の事が自分自身でできるようになる小学校中学年〜高学年。
僕もそうでしたが、誰しも下手したら死ぬかもしれないような危険な遊びをしたりします。

例えば、根性試しに少し高い木の上(都会であれば公園のジムのようなものでもいいですが)から飛び降りてみたり。
子供だけで冒険と称し山の中へ入ってみたり。
子供だけで川遊びや海へ行き水の深い所に入ってみたり。

誰しもが一度は経験したことがあるのではないでしょうか。

この少年達に死に近づく事は、つまり「又三郎が転校生としてクラスにきた事」として暗喩していると。

そして、後半又三郎が転校していく件は、子供達から死が遠ざかる事を意味し、つまり少年達が死と遊ぶ事(又三郎と遊ぶ事)を通過儀礼として、少年期から次の段階、思春期に入ったという事を表しているというのです。

風の又三郎の冒頭の歌。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

という歌は、青いくるみ & すっぱいかりん=熟さないもの=大人になろうとしないものは吹き飛ばして地面に叩きつけて割るぞ。

大人になろうとしないものは殺してしまうぞ。

という事であると。

さらに武田さんは続けます。

生はいう字と死という字を縦に並べ、生の下の横棒と死の上の横棒を重ねて、それを大地として見た時に、生は天に向かって伸びていく樹木の枝のように、死は地に向かって伸びていく樹木の根のように見えると。

つまり、
太陽に向かい輝かしく伸びる生は、死という根によって支えられているというわけです。

宮沢賢治はそれが言いたかったのではないかっという風に締めくくられます。

なるほどなぁと。
ちょうど少年期から思春期に入る樹木でいえば青々と青葉を繁らせた若い木は、生き生きとしたたくさんの生を持ちながら一方で死という根を意識する時期であるということですね。

少年と死。を考える時、僕はもう1つの物語を思い出します。
スティーブンキングの「スタンドバイミー」です。

 

この作品も少年から青年になる通過儀礼の話として有名ですが、その通過儀礼とは死を意識するというものです。

この物語は、列車で跳ねられた少年がいるという噂話を聞き、それを少年4人が探しに行くというものです。

その死体探しに行く途中の彼らの冒険をコミカルにまたノスタルジックに描きつつ、一人一人の置かれている状況や考え方をクローズアップしていくという流れで話が展開します。

そして、最終的に死体は見つかり彼らは帰路に着くのですが、出発した時とはちょっと違い、少し大人になって帰ってくるのです。

ほんの1日の子供達だけの冒険なのですが、この死体探しを通過儀礼として彼らは少年から青年へと変わります。

前述しましたが、武田さんのおっしゃる通り「生」という枝は「死」という根っこに支えられているというのは同感で。
生を強く意識する青年期に、同時に死を意識するというのは、とても大切なことだと思います。

またまた、武田さんがおっしゃっていましたが、現代社会は生を教え、死を隔離する時代になったと。死はお医者さんの領分になってしまったと。
死を意識できる場が少なくなった事をおっしゃっていました。
生が死に支えられているという考えに基づいていえば、一方のみでは片手落ちなります。とどまることのない強い生を死というリミッターで抑えるということです。
「人は死ぬ」という事を理解すれば、おかしな事件も減るのかもなぁと思ったりします。



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