僕は満島ひかりに恋をした(映画『愛のむきだし』感想)

園子温監督の『愛のむきだし』を観た。

そして作品の感想とかそういうことは置いといて、
とにかく何が言いたいかというと、
この『愛のむきだし=満島ひかり』だということと、
この作品を観て僕は満島ひかりに恋をした、ということだ。
それだ。それに尽きる。

・気が強く、
・他人との距離を掴むのが実に下手で不器用で
・脆く、危うく、
・実は純粋な

この映画は僕のように
そんな女性に弱い男には『毒』だ。猛毒である。

過去に何度か経験したこの感覚。
映画『つぐみ』のつぐみや小説『ジョゼと虎と魚たち』のジョゼや、
映画『打ち上げ花火』(また出た!)のナズナや、
小説『海がきこえる』の里伽子の時感じたものと同じ感覚。

はたまた、この感覚にも近い。
1990年代日本女子バレー代表(中田、大林、伊藤時代)の
打たれても繋いで打たれても繋いで、やられても起き上がる
中学時代にその様を見た僕は、感動のような憧れのような
ある種の恋焦がれるような感覚を感じた。

そんな恋と感動と憧れの入り混じった感覚。

分かるだろうか?

若かりし10代の頃に感じたこの感覚。
30代のオッサンになって、こんな感覚にさせられるとは
思いも寄らなかった。

この作品を観て僕は満島ひかりに恋をしたのだ。
あ~、そうだ。それが正しい。それがこの映画の感想。

本当は上記の文をこの記事の最後に持って来て〆たかったが、
そんなコトできない。僕が今伝えたいことは上記のとおりなのだから。
とにかく、それが感想のほとんどを占める。
カワイイ。とにかく満島ひかりがカワイイ。
いや、満島ひかりがカワイイのか?
違うな。ヨーコ(劇中の満島の役名)がカワイイのだ。
いや、そのヨーコを演じる満島のむきだしの演技がいいのか?
その演技に感動してしまっているのか?
そうだとしたら満島に恋してることになるな。どっちだ?

とにかく、是非、観て下さい。はい。

そして、尻つぼみ的に映画の感想になるわけだが、
ありきたりな感想になります。はい。

とにかく突き抜けるって感じの映画である。
タイトル見て頂ければ分かるとおり
愛のむきだしってタイトル、なかなかつけないでしょ?普通。
自分で一生懸命作った作品だもの。もっとカッコつけたい。
人間だもの。カッコつけたい。何事にも。

相手に愛情を表現するのもそう。カッコつけたい。
告白して断られたら、
『そうか。仕方ないよね。分かった~』
なんつって。ともすれば
『これからも君のことを応援するよ』
なんつって。

でも、本当はそんなもんじゃないんだ。
格好なんてつけてる場合じゃなくなるんだよ。
もっと、狂気じみてくる。
方向は様々だが、もっともっと狂気じみたものになってくる。
たとえば、その昔、僕が嫁さんをつけまとったように。
http://from-meguro.com/archives/6747
イヤなもんはイヤ。ど~にかこ~にかしたい。
カッコ悪くとも、社会的におかしくても、誰かを傷つけても。

むきだしになるモノだ。と。

その『むきだし』のものはとても純粋だと。
どんなものであれ純粋なものだと。
そして、それはとても美しいものだと。
そういうことなのだと思う。

全く内容には触れませんが、僕なりの解釈はそういうことです。
愛のむきだしってのはそういうことなのではないかと。
何が何でもという自分の気持ちに正直に。

そして、勝手に解釈してしまうのですが
園子温監督は優しい人なのではないかと。
やはり最後には救ってあげちゃう。
現実はどうかといえば結構厳しくて救われないことが多いと思います。
思い通りにはいかない。
園子温監督は作品のバランスを考えられたのかもしれませんが最終的に救うのです。

とにかく観てみて下さい。
4時間弱ある大作ですが結構すぐに観れてしまいます。たぶんね。



la cuisine(かもめ食堂~孤独のグルメ)

(下記、映画かもめ食堂からの引用になります。  まだ、ご覧になってない方、セリフを知りたくない方は  読み進めない方がいいです。一応、ご注意を)

「ねぇ、知ってました~。マサコさんの”いらっしゃいませ” 少し丁寧すぎると思うんですよ。」

「ちょっとやってみせて下さいよ。」 

……….いらっしゃいませ……..。

「ほらぁ~。」

「丁寧すぎですか~?」

「いやぁ、いいんじゃないですか。丁寧で。」

「でも、ミドリさんの”いらっしゃい”は少し乱暴すぎません?」

「そんなことないでしょ~。」

「やってみせて下さいよ~。」

……….いらっしゃいっ。

「ほらぁ~、どう思います?」

「いやっ、いいんじゃないですか。ミドリさんらしくて。」

「サチエさんの”いらっしゃい”はねぇ…….すごくイインですよ。」

「そうですかぁ?」

「たしかにそうねぇ…..サチエさんの”いらっしゃい”は見ごたえがあるわね」

「ちょっと、やってみて下さいよ~。」

「いいですよ。そんな。」

「いいじゃないですか~。ちょっと見せて下さいよ~。」

「いやっ、いいですって。」

(カランッ)

「コンニチハ~。」

いらっしゃいっ!

(以上、映画かもめ食堂からの引用)

先日、かもめ食堂を見た。 なんというか、素敵な映画だった。 これだけ目的というか浮き沈みのないストーリーで 淡々と作品を仕上げることってできるんだなぁってのが感想。

たぶん、そんなにイイなら一度見てみるか。 どんなストーリーなんだろう?楽しみだなぁ。 っと気合を入れて、 『よ~~し!!映画をみるぞっ!』 ってな具合に見ていたなら 『なんだ。この淡白な感じは….』 っと若干薄味過ぎて不完全燃焼になるだろう。

実際、会社の同僚に薦めたところ、 『なんか、結局なんなのか分かんないですね….』 っという感想だった。

まさにその通り。 この映画には終着点がない。 いや、正確にはある。 あるんだけど、そんな仰々しい終着点じゃないっていうか。 起承転結がきっちりしている物語じゃないとダメな人だと 、あんまりって感じなんだろう。

その点、僕は映画は雰囲気とか感覚で見ることが苦痛じゃないので、 とてもしっくりきたわけだ。

そういえば以前、岩井俊二の『オムレツ』を薦めたときも 同じような感想を言われた気がする。

たしかにオムレツも終着点が不明瞭っちゃ不明瞭だな….。

あの作品は、なにがイイって山崎裕太の小気味イイセリフまわしと 高田純次との軽快なやり取り、それとヂ・岩井俊二って感じの カメラワーク、コマ割りのが魅力だ。 ストーリーはオムレツ作りという通過儀礼を通してホニャラララ~って いうように難しい言い方をすれば、そんな感じになるが 実際はサラッとしたテイストに仕上がっている。 そこがいいのだ。

でも、どうしてもそこ(ストーリー)がしっかりしてないと観た気がしない人 って人もいるわけだ。それはそれで個々人好みってのがあるわな。

だから最近は、オススメはしないほうがいいなっと思ってる。 こういう雰囲気とか感覚で観る作品の場合は。人によっては全然だからね。

昔から少年少女モノは好きでスタンドバイミーとか小さな恋のメロディとか 大好物なんだけども、最近新たに気付いたことがある。

下記、最近僕が読んだり観たりしたもの。 それと昔から好きなモノ、リストだ。

・(小説)みをつくし料理帖シリーズ
・(映画)かもめ食堂
・(小説)食堂かたつむり
・(ドラマ)オムレツ
・(ドラマ)孤独のグルメシリーズ

お分かり頂けただろうか? 食べ物関係にばっかりだ…….。 最近分かったことだけど。

別に意識したことないんだけどね。 気がついたら、上記のような感じなんだよね。

オススメしないって言ったばかりだけど、 上の5つは面白い。ホントに。

みをつくし料理帖は、江戸時代の下町の料理屋を 舞台にした人情劇。

かもめ食堂は、フィンランドの日本食堂を舞台とした物語。 とにかく北欧のインテリアや小物がオシャレ。

食堂かたつむりは、コレもまた田舎町を舞台として 1日1組のお客を取り奇跡を起こす食堂の話。

オムレツはまぁ、先に書いたとおりで。

孤独のグルメはテレビ東京で深夜やっている とにかく1人で食べまくる番組。これがまたいいんだ。

普段、朝から晩までピリピリと気を使いながら仕事してると、 それ以外の時間はできるだけ神経に負担のないノンビリした 淡々とした物語が欲しくなるんだな。たぶん。いい旅夢気分とかさ。

そんな時、食べ物の話ってのは本能的に気持ちが安らぐ。 美味しい食事をしながらケンカをしないってのと同じだな。

ということは、僕の場合、少年少女モノと料理モノってことだから、 ミスター味っ子とか鉄板ってことか。

…………いや、つか、 よく考えたら実家にミスター味っ子全巻持ってたな。オレ。



稲むらの火

(以下、引用文です)

「これは、たゞ事でない。」

とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。
今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかつた。
しかし長いゆつたりしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、
老いた五兵衛に今まで経験したことのない無気味なものであつた。

五兵衛は自分の家の庭から心配げに下の村を見下した。
村では豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、
さつきの地震には一向気がつかないもののやうである。

村から海へ移した五兵衛の目は忽ちそこに吸付けられてしまつた。
風とは反対に波が沖へくと動いて見る見る海岸には広い砂原や黒い岩底が現れて来た。

「大変だ。津波がやつて来るに違ひない。」

と五兵衛は思つた。
此のまゝにしておいたら四百の命が村もろ共一のみにやられてしまふ。
もう一刻も猶予は出来ない。

「よし。」

と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は大きな松明を持つて飛出して来た。
そこには取入れるばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。

「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」

と、五兵衛はいきなり其の稲むらの一つに火を移した。
風にあふられて火の手がぱつと上つた。
一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。
かうして自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと松明を捨てた。
まるで失神したやうに彼はそこに突立つたまゝ沖の方を眺めてゐた。
日はすでに没して、あたりがだんく薄暗くなつて来た。
稲むらの火は天をこがした。山寺では此の火を見て早鐘をつき出した。

「火事だ。荘屋さんの家だ。」

と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。
続いて老人も女も子供も若者の後を追ふやうにかけ出した。

高台から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。
やつと二十人程の若者が、かけ上つて来た。
彼等は、すぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大声に言つた。

「うつちやつておけ。―― 大変だ。村中の人に来てもらふんだ。」

村中の人は、追々集つて来た。
五兵衛は、後から後から上つて来る老若男女を一人々々数へた。
集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを、代るがわる見くらべた。
其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。

「見ろ。やつて来たぞ。」

たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。
遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。
其の線は見るく太くなつた。広くなつた。非常な速さで押寄せて来た。

「津波だ。」

と、誰かが叫んだ。
海水が絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと山がのしかゝつて来たやうな重さと
百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。
人々は我を忘れて後へ飛びのいた。
雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は一時何物も見えなかつた。
人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。
二度三度、村の上を海は進み又退いた。
高台では、しばらく何の話し声もなかつた。
一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たゞあきれて見下してゐた。

稲むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明るくした。

始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと気がつくと、
無言のまゝ五兵衛の前にひざまづいてしまつた。

(以上)

この稲むらの火という作品は昭和12年から昭和22年まで、
小学校5年の国定教科書として使用された作品である。

津波の来襲を察知した五兵衛が、まだそれに気付いていない村人達を
高台に避難させるため収穫したばかりの自分の稲むら(収穫し、
まだ実を付けた状態で干してある稲束)に火を付け村人を高台に集め
大勢の命を救ったという物語である。

当時、農民にとって命と同じくらい大切だった米を全て犠牲にして
仲間を助けたという部分が日本人心をくすぐる。

この物語のモデルは、濱口梧陵という人物で、
彼は1854年安政南海地震津波が彼の地元紀伊国広村(現・和歌山県有田郡広川町)を
襲来した際、自分の田にあった藁に火をつけて(避難路の目印として)
安全な高台に皆を誘導し村人の大多数を救ったという実話がベースになっている。

ちなみにこの濱口梧陵という人物は、現・ヤマサ醤油株式会社の7代目だそうだ。

そして、昭和22年(1947年)から現在(2013年)、
66年という長い年月を経て現在小学5年生の学校教科書に再掲載されている。

んで、僕は息子(5年生)の教科書の音読の宿題に付き合って、
この物語を知り結構興味深かったので、
ご紹介がてら、この記事を書いてるっていうことです。

はい。以上です。