正月とはなにか?

早いもので今年ももうすぐ終わりです。
今年も早かった。

年々、年を経る速度が増している気がします。
その昔、マツコデラックスさんがTVで
「人間は高齢になればなるほど、時間の進む速度にオーバードライブが掛かって速くなっていく。
そうでもないと80年も90年も生きられないわよ」
っとおっしゃっていましたが、その通りなのかもしれません。
若い頃の感度で90年も生きていたら疲れてしまいます。

ってことでお正月も近いですが、お正月ってのはNew year Greeting、年の始めを祝う月であることは間違いないのですが、神道的に歳神を迎える行事です。
歳神とは豊作の神でして、その神が各家々に来てくれるのを迎えるわけです。

年末からのスキームとしては、

人が持っているとされる108つの煩悩を
年末年始の除夜の鐘で落とします。
(だから除夜の鐘は108衝くことになっています)

各家の門戸を開き、歳神様が来るのを待ちます。
その際、餅を飾っておいて、その餅が歳神の座る場所になります。
それが鏡餅です。

その歳神様のパワーが宿った餅を食べる行事が鏡開きになります。
歳神のパワーを自分たちの体に入れる儀式になります。

一方、仏道的にはお正月は「冬のお盆」です。
お盆ですからご先祖様が帰ってくるのを迎える期間になります。
そのための儀式ということになります。

なんで違う意味があるんだよ。っと思うかもしれませんが、神道では人も動物も死ぬと魂が神になるということですので、とどのつまり、歳神様というのが自分たちの先祖だったりします。

そのように広くとらえた場合、神道的にも仏道的にも先祖を迎える期間ということになります。

日本にはこのように同じものでも違う呼び方をするものが結構ありますね。
例えば、「ぼたもち」と「おはぎ」なんてのは、両方とももち米を丸くこねたものをアンコで包んだものですが、

春の彼岸に供物として使用されるときは、春の花「牡丹」にちなんで「牡丹餅」=ぼたもちと呼ばれます。

一方、秋の彼岸の供物として使用されるときは、秋の花「萩」にちなんで「御萩」=おはぎと呼ばれます。

同様に夏は夜船。冬は北窓などと呼ばれたりします。

おもしろいですね。



験(げん)を担ぐ

「験(げん)を担ぐ」

漢字で書くと「験」と書くんですね。
初めて知りました。

テストの前日にカツを食べたり。
新しい靴にツバをかけたり。
事が終わるまでは髭を剃らなかったり。

まぁ、日本人は験を担ぎたがります。

|六曜って?

そんな験担ぎの中でもメジャーな部類に暦注の「六曜」というのがあります。

結婚式は大安がいいとか、そういうやつです。

名前は知ってるけど、具体的にどのような内容なのか?と言われると結構分からない人もいると思うので以下のとおりまとめます。

友引(ともびき)
元々は、「共引」と書いたそうです。
つまり何事でも引き分けになる日と言う意味です。
現代では「友引」と書いて、死者が友人を連れて行ってしまうので友引には葬式はしないとか言われてますが、元々は共引ですので因果関係はないものと思われます。

赤口(しゃっこう)
陰陽道では凶日とされ、正午過ぎまでは吉、午後は凶とされたそうです。赤と言う字が入っていて血や火に繋がるとされ刃物、火の元に気を付けるように戒めた日だそうです。

先勝(せんしょう)
「先んずれば即ち勝つ」という意味で、急いで行った方が良い日。
午前中に行うことが良いという事です。

先負(せんぷ)
先勝とは反対に「先んずれば即ち負け」という意味で、午後に行うことが良いという事です。

仏滅(ぶつめつ)
元々は、「物滅」と書き「全ての物が滅する日」という意味です。
後に仏という字が付けられたそうです。
出来るだけ何もせずやり過ごす事が吉とされる日です。

大安(たいあん)
「大いに安し」という意味で、何事もスムーズにうまく行くという日です。

以上の6種類で六曜と呼ばれます。

雰囲気的には仏教関係の何かのように思われがちですが、実際には仏教との因果関係は無いようです。

仏教の場合、「日々是好日(ひびこれこうじつ)」とされ毎日が貴重な時間であり、それに良し悪しは無いとされています。

仏教と関係ないというのは意外でした。はい。



風の又三郎、スタンドバイミーにみる少年と死

かれこれ10年くらい前でしょうか。

「世界一受けたい授業」というTV番組で武田鉄矢さんが宮沢賢治「風の又三郎」の自分なりの解釈という授業をされていました。

YouTubeで探したのですが、後半部分しかありませんでした。

本当は最初から見たい所ですが仕方ありません。
後半だけでもご覧になってください。

とりあえず動画を見ていただくのが早いんですが、かいつまんで文字起こしをするとこんな感じになります。

風の又三郎というのは「死」の事である

少年時代、特に大概の事が自分自身でできるようになる小学校中学年〜高学年。
僕もそうでしたが、誰しも下手したら死ぬかもしれないような危険な遊びをしたりします。

例えば、根性試しに少し高い木の上(都会であれば公園のジムのようなものでもいいですが)から飛び降りてみたり。
子供だけで冒険と称し山の中へ入ってみたり。
子供だけで川遊びや海へ行き水の深い所に入ってみたり。

誰しもが一度は経験したことがあるのではないでしょうか。

この少年達に死に近づく事は、つまり「又三郎が転校生としてクラスにきた事」として暗喩していると。

そして、後半又三郎が転校していく件は、子供達から死が遠ざかる事を意味し、つまり少年達が死と遊ぶ事(又三郎と遊ぶ事)を通過儀礼として、少年期から次の段階、思春期に入ったという事を表しているというのです。

風の又三郎の冒頭の歌。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

という歌は、青いくるみ & すっぱいかりん=熟さないもの=大人になろうとしないものは吹き飛ばして地面に叩きつけて割るぞ。

大人になろうとしないものは殺してしまうぞ。

という事であると。

さらに武田さんは続けます。

生はいう字と死という字を縦に並べ、生の下の横棒と死の上の横棒を重ねて、それを大地として見た時に、生は天に向かって伸びていく樹木の枝のように、死は地に向かって伸びていく樹木の根のように見えると。

つまり、
太陽に向かい輝かしく伸びる生は、死という根によって支えられているというわけです。

宮沢賢治はそれが言いたかったのではないかっという風に締めくくられます。

なるほどなぁと。
ちょうど少年期から思春期に入る樹木でいえば青々と青葉を繁らせた若い木は、生き生きとしたたくさんの生を持ちながら一方で死という根を意識する時期であるということですね。

少年と死。を考える時、僕はもう1つの物語を思い出します。
スティーブンキングの「スタンドバイミー」です。

 

この作品も少年から青年になる通過儀礼の話として有名ですが、その通過儀礼とは死を意識するというものです。

この物語は、列車で跳ねられた少年がいるという噂話を聞き、それを少年4人が探しに行くというものです。

その死体探しに行く途中の彼らの冒険をコミカルにまたノスタルジックに描きつつ、一人一人の置かれている状況や考え方をクローズアップしていくという流れで話が展開します。

そして、最終的に死体は見つかり彼らは帰路に着くのですが、出発した時とはちょっと違い、少し大人になって帰ってくるのです。

ほんの1日の子供達だけの冒険なのですが、この死体探しを通過儀礼として彼らは少年から青年へと変わります。

前述しましたが、武田さんのおっしゃる通り「生」という枝は「死」という根っこに支えられているというのは同感で。
生を強く意識する青年期に、同時に死を意識するというのは、とても大切なことだと思います。

またまた、武田さんがおっしゃっていましたが、現代社会は生を教え、死を隔離する時代になったと。死はお医者さんの領分になってしまったと。
死を意識できる場が少なくなった事をおっしゃっていました。
生が死に支えられているという考えに基づいていえば、一方のみでは片手落ちなります。とどまることのない強い生を死というリミッターで抑えるということです。
「人は死ぬ」という事を理解すれば、おかしな事件も減るのかもなぁと思ったりします。